さっぽろわくわく商店街


由来・日因縁・ミニヒストリー


商店街の歴史をシリーズでお届けいたします
■■ 第18回 発寒北商店街 ■■
◆発寒北商店街近年の様子
昭和31年当時の様子

昭和31年当時の様子
 発寒の地名は、この地にムクドリが群生していたことからアイヌ語の「ハチャム・ペツ」(ムクドリのいる川)を語源としています。
  発寒地区は、中国の屯田兵制にならい武士が辺境の地に居住し、その地の警備と開墾に従事するという制度により開拓されました。 入地早々はまだ家もなく、アイヌとの交易に使われていた空き蔵を一時しのぎに使ったと言われています。彼らは、現在の稲荷街道沿いあたりに入地し、農作物を栽培しながら発寒の開拓にあたりました。
  その後、明治9年琴似屯田兵村の分村として発寒にも32戸の屯田兵村ができたことにより、人口の増加や市街化が進みました。
  このように発寒は、在住武士と屯田兵による開拓という本道でも数少ない例によって開かれた地域といえます。

■写真は「西区のおいたち 区制施行20周年記念」より

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◆発寒の語源と開墾
昭和42年2月

昭和42年2月
 大正9年、発寒小学校前踏み切りから新川間約2,2キロが琴似町道になりました。そして昭和30年札幌市との合併で市道になった時、踏切から南側を加え現在の延長約3,7キロ、幅員5,45〜20メートルの道路が完成しました。
  馬車がぬかる悪路も、明治以来の排水路も昭和42年以降進められてきた歩車道の整備で近代的な舗装道へと姿を変え、沿線の街並みも昭和36年の木工団地の開設などを契機に住宅や商店が急増しました。
  昭和10年頃までは、あまり住宅もなく店も売店程度のものしかありませんでした。当時から道路の用地は10間(約18メートル)ほどありました。両側に排溝があり、実質的には馬車が往来できる程度の道幅でした。また、下手稲線から北は笹やぶで人が通る程度でした。そののち写真のように店が立ち並び地域も発展していきました。

■写真上は、昭和42年の発寒地区商店街の様子
■写真下は、昭和52年の発寒地区商店街の様子
昭和52年

昭和52年
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◆発寒の発展
発寒北商店街

発寒北商店街
 ここ近年の活動は、毎年5月に町内会・老人クラブの方々に協力して頂き「ぎんなん通り」の花壇に花を植えて道行く人々に楽しんで頂いています。
 7月の「ふれあい夏まつり」は、町内会・飲料店組合・商店街と合同で行っています。夏祭りは地域の方々に定着している行事の一つです。毎年12月には、年末大売出しを開催し、各加盟店に協力していただき、抽選で温泉パックなどをプレゼントをして喜んで頂いています。12月は、育生会を通しての「子供もちつき大会」や、ぎんなん通りでは、「スノーキャンドル」を作っています。 2月は各町内会の女性部の方々で「ママさんボーリング大会」を開催しています。
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