さっぽろわくわく商店街


由来・日因縁・ミニヒストリー


商店街の歴史をシリーズでお届けいたします
■■ 第3回 平岸中央商店街 ■■
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入植時の平岸街道

 

 

 

 

 

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明治44年の平岸街道。中央水路が流れ、人の往来も少なく、のんびりした街道だった。

 

 

 

 

 

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昭和52年の平岸街道。高度成長期を迎え、ビル化が進む。

 

 

 

 

 

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平成14年の平岸街道。人口の増加にともない、若い層も増え、金融会社等の特色を持った店も増えてきた。

 

 

 

 

 

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平岸天神太鼓保存会の面々
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平岸天神太鼓若駒会
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昭和62年の商店街夏祭りでお披露目された「平岸天神太鼓」。
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平成6年・第3回YOSAKOIソーラン祭りに参加した平岸チーム。
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中国公演の様子。
●入植の歴史

平岸は今から約130年前、仙台伊達藩の小藩であった水沢藩の家臣と農民等によって拓かれました。当時の平岸の入植者は、明治政府にとって賊軍の支藩の人たちであったため、開拓使の保護も少なく、筆舌に尽くせぬ苦難の中での開拓であったようです。平岸に流れている反骨精神は、このときに培われたのかもしれません。

そして、その後に入植した人たちにも、開拓時代の独立不羈の精神が引き継がれ、道路・用水路・橋を自主的に整備するなど、平岸には独自の歴史と気風があるように思います。

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●未来へつなぐ開拓夢街道〜平岸街道

明治4年、開拓使は62戸の開拓者を入植させるため、現在の北海学園前から南北1400間(約2500m)の直線道路を開削しました。これが今の平岸街道の始まりで、その後まもなく開削された真駒内新道、有珠新道につながる北海道の開拓、発展の命綱となる広域幹線道路の骨格が出来上がったのです。

開削当初、平岸街道は原生林を伐倒しただけの荒れ道で、開拓者は割り当てられた自分の土地を開墾するために、道路の整備にも大きな労力を費やすこととなりました。

平岸街道と札幌をつなぐ道路は、当初、現在の北海学園前から豊平橋までの曲がりくねった踏み分け道で、札幌中心部との往来には不便でした。そこで、明治12年、平岸街道から室蘭新道までの直線道路が開削され、戦後、米軍駐留の影響で真駒内新道を一時閉鎖するまでは、真駒内種畜場や石山へ抜ける主要道路として利用されていました。

また、多くの皇族が行啓された際には、街道の一部を通るため、「宮様道路」とも呼ばれました。北海道土木部によって、立ち寄られる箇所を、用水堀は石垣で、道路は舗装、沿道にはアカシアの木を植えるなどの整備がなされました。

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●平岸商人の先進気質〜木村商店

平岸の商業の歴史を見てみると、その発達は意外と遅いものだったようです。現在の平岸3条14丁目に木村商店(後の清水商店)が開かれたのは、明治26年で、その後、大正11年に平岸2条13丁目に奥村商店が開業し、昭和に入るまでこの2軒の商店しかない状態が続きました。

このほか、大正から昭和の初期では、平岸地区に目立った商店の開業はなかったようです。このころ地域住民は、豊平にあった桐商店、池上商店などの御用聞きが朝注文、午後配達といった商売を始め、これを利用したり、農作物を町へ売りに行ったついでに日用品を買ってくるという生活をしていたようです。

木村商店を開いた木村孫太郎さんは、山形から入植し農業を営んでいましたが、「何か良い商売はないか」と考え、平岸や澄川の人を対象に味噌・醤油・塩・菓子・煙草・切手・ランプ油、そして平岸小学校のすぐそばにあったため、文房具などを販売するようになりました。時代を100年先取りしたコンビニエンスストアといったところで、まさに先進的な商業スタイルだったのでしょう。

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●平岸商人の知恵〜奥村商店

平岸に2軒目の奥村商店を開業した奥村弥太郎は、同じく食料品・雑貨を扱い、8月に開業する予定でしたが、客の注文が殺到し、開店を2週間早めたそうです。

しかし、当時、その地域は60戸ほどの世帯しかなく、平岸地域だけでは経営が困難であったようです。このため、奥村は、石山・滝野から木材を運搬するため平岸街道を通る人に目をつけました。

店の前に水を入れた一寸樽を置き、通る馬に水をやっている間に運搬人を休ませました。そうすると彼らは菓子を食べたり、酒を飲んだりしたそうです。これは、現代の道の駅といったところでしょう。

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●平岸天神太鼓の歴史

明治4年、仙台伊達藩の一門が入植し、平岸村が誕生してから130余年、原始林からすっかり近代化ビル群に変貌を遂げた町で、過去の血と汗と涙の歴史ある先人たちの開拓精神を、後世に伝えねばという機運が高まりました。そして、昭和60年平岸中央商店街振興組合の発足に伴い、夏祭りが実施され、祭りにつき物の太鼓の音を求める声が上がりました。

そこで、平岸中央商店街振興組合の発足に伴い、平岸の開拓時代を伝える文化遺産として、郷土芸能を後世に伝える役割も担って、地元を愛する人々の中から、有志数名が「どさんこ太鼓」で修行、前年の太鼓披露もあって本格的に練習に励みました。商店街の会員及び一般からも有志を募り、平岸の歴史的遺産である林檎倉庫(れんがぐら)の中で基礎などを徹底的に勉強・練習を始めました。

そして、昭和62年平岸天神太鼓創設期成会が結成され、8月の商店街夏祭りで初のお披露目を行いました。その後、小学生の部が編成されたのを機会に(後の小中学生若駒会)、期成会を平岸天神太鼓保存会と改め、その後全道各地で公演、そして後進の育成にもあたっています。

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●平岸天神ソーラン踊り

平成3年、札幌市の依頼で、平岸中央商店街が高知県から3年間各年100万円相当の花の提供を受け、平岸街道に植花し、その管理を通じて高知県のPRをするという「花の架け橋花見合」事業がありました。

時を同じくして、一人の北大生が高知県の伝統的な「よさこい祭り」を見て感動し、その熱気と迫力に圧倒され、何とか札幌でその感動を再現したいと奔走していました。

平成4年、高知の「よさこい祭り」と北海道の「ソーラン節」をミックスした「YOSAKOIソーラン祭り」第1回を、大通公園を中心に開催しました。このときの高知の大賞チームであるセントラルグループが来札。「花の架け橋花見合」の縁で平岸に来て、演技を披露。観衆が踊りの迫力に圧倒されました。

そして第2回の祭りに際し、高知県と縁のある平岸が、踊りのチームを作って祭りに参加して欲しい、また祭りの第2会場を設置して欲しいという要請があり、土佐の山田太鼓と平岸天神太鼓との競演も含めてこの祭りに全面的に参加するに至ります。

380万円の募金活動と、踊り手の募集等々、商店主の面々が各担当部門で懸命の活動を開始。平岸天神太鼓メンバーに一般募集の踊り手、地区有志、地元企業の資金協力で、郷土を代表する平岸天神ソーラン踊りチームがここに誕生したのです。

平岸の新しい伝承芸能文化として、最初に平岸天神太鼓、そして平岸ばやし、3番目に平岸天神ソーラン踊りが誕生して、平岸の名も全国そして世界へ轟きだしています、豊かな心の触れ合う平岸のまちづくりへと大きく夢が広がっています。

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